くみた柑のオキラクニッキ

時々オキラク、時々マジメ。基本オキラクだけど、人生ってきっと厳しい。

その人にしか書けない世界

さいころの環境というのは、想像以上に大切なものだ。
その人の、その後の人生すべてを支配するほどに。

現実世界の私は人見知りなので、家族以外に交友関係は少なく、ネットの世界であってもSNSでつながっている人は200人に満たない。
そんな少ない私の観測範囲内で、すでに数人、小さい頃に酷い環境の中で生き抜いてきた人がいる。

自著「七月、きみのとなりに」の背景に、劣悪な環境で育ったことを、ほんのりと匂わせている登場人物がいる。その子には、近くに良き理解者がいて、逃げ場もあった。そこに、救いを作りたかったからだ。

でも現実には「家庭」という閉じた世界で、その狂った日々が「日常」であり、そこから逃げ出したくても、大切な時期の幼少期であればあるほど「家庭」から離れるのは困難で、そこが「異常な場所」だと気づくことすら難しい。
学校に行くようになって、はじめて「朝ごはん」というものの存在を知った、と言っていた人がいた。友達同士の「朝ごはん何食べてきた?」というごく普通の会話から、その人は自分の家が異常であったことに気づく。

今はネット環境があれば、外と繋がることができる。
情報を得ることができる。

しかし、一昔前の「家庭」は恐ろしいほどに閉じた場所だ。
劣悪なその環境を想像することはできる。しかし、経験したものでなければ、本当の苦しみはわからない。
劣悪な環境から抜け出せたとしても、幼少期の頃の辛い記憶というものは、心の奥にしっかりと根付き、ふとした瞬間にフラッシュバックする。

救いたい。 手を差し伸べたい。 でもきっと、私にそれはできない。
はがゆい。もどかしい。

介護をする前、介護のしんどさを想像してみた。
ある程度の知識を得て、ある程度の覚悟をして。
でも、実際に介護をしなければ、真の介護の辛さは理解できなかった。
想像していたものと全く違っていた。

経験しなければ見えない世界。
その世界を綴れる人は、その世界を経験した人だけだ。
別に自叙伝じゃなくてもいい。
物語に落とし込んで書けばいい。
そうして書いたものは、万人に理解されずとも、必ず届く人がいる。

「記憶の森の魔女」は、自らの経験を物語に落としこんで書いた作品だ。
書いているときは辛い記憶がよみがえり、とてもしんどかった。
辛いのに、なぜ書いたのか?
こういう世界があるのだと、理解してほしかったからだ。

その人にしか書けない世界がある。
私はあなたに見えている、あなただけに見えている世界が知りたい。

七月、きみのとなりに
新月ブックス
2015-07-15
くみた柑

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