くみた柑のオキラクニッキ

時々オキラク、時々マジメ。基本オキラクだけど、人生ってきっと厳しい。

死への恐怖がなくなるということ

母は10年ほど前にアルツハイマー認知症と診断された。

認知症初期の、自分で自分の異変に気づき、しかしどうにもできない頃が一番辛そうで、「人様に迷惑をかけるくらいなら死んでしまいたい」と涙を流しながら何度も言っていた。

本人も、家族も、一番苦しい時期だったと思う。

しかしある時、結婚時代の記憶がごっそりと消えた。

子どものことは覚えているのに、夫の存在、つまり私の父親の記憶だけ、綺麗に抜け落ちた。

「結婚していないのに、どうして子どもがいるんだろうねぇ?」と聞くと、不思議そうに頭をかしげ、考え込んでいた母を今でも覚えている。

私からみても、ひどい父親だった。

母はずっと父から苦しめられてきたので、その記憶がすっぽりと抜け落ちたことは、母にとっては幸せなことだったのかもしれない。

夫が存在したという部分の記憶の欠落は、母が認知症になって、唯一、救いと思える出来事だった。

要介護度が1つずつ上がるたびに、それはまるで、死へのカウントダウンのように思えて辛かったけれど、死へ近づくほどに、母の表情は穏やかになっていった。

施設で、元気に穏やかに過ごしていた母が、ある日を境に急激に弱っていく。

車椅子になり、食欲が減り、そして病院で受診したときには、腹水がたくさんたまっていて、もう手の施しようがない状態だった。

母と一緒に、ドクターから淡々と、もう打つ手はないという説明を聞いた。

診察室から出て、待合室で待っている時。

長い待ち時間と診察で疲れたのか、ウトウトと気持ちよさそうに眠る母の顔を見ながら、私は声を殺して泣いた。

その後も母は、いつもと変わらない笑顔をみせてくれた。

ことあるごとに、介護士さんや私達に「ありがとう」と感謝の言葉を忘れなかった。

そのおかげで私達も、母のそばにいるときは笑顔でいることができた。

もし母が認知症でなければ。

あるとき体調の変化に気づき、辛い癌の検査を受け、告知と余命宣告をされ、その後も苦しい抗がん剤の治療が続き、死への恐怖と戦い続けていたかもしれない。

母は精神的にとても弱い人だったので、その状況では体より先に、心が壊れてしまったかもしれない。

そう考えると、最後の最後まで笑顔でいれたことは、死への恐怖がなかったことは、母にとっては救いだったのかもしれない。

少なくとも、私達は母の笑顔に救われた。

認知症という病はとても憎いけれど、母を、死への恐怖から救ってくれたことには感謝したいと思う。

そして、最期まで、家族のように接してくれた施設のスタッフの皆様に、衷心より感謝いたします。