くみた柑のオキラクニッキ

時々オキラク、時々マジメ。基本オキラクだけど、人生ってきっと厳しい。

人の幸せを暴力に感じるときは

昨晩ツイッタのトレンドにあがっていた『結婚式の加害性』。今朝になってもまだちらほらと話題が出ているようなので、昨日感じたことと、それに伴い思い出した過去の苦い感情をつらつら書いてみます。

 

まず、結婚式をあげたい人はあげればいいし、祝いたい人は祝えばいい。今は人の幸せに触れたくないときであれば断ればよい。でも問題はそこじゃない。

結婚式に限らず、人の幸せに触れた時、それがたとえ一方通行で強制的なものであったとしても、自分の心が豊かで余裕があれば、嬉しかったり、ほっこりしたり、そういう、いわゆる幸せのおすそ分け的な感情になる。
それが正しいか正しくないかじゃなくて、そう感じることができる人の人生は、現在健康的で豊かなものであることの証明なのだと思う。

重要なポイントは、たとえ辛い過去を経験してきたとしても、現在(いま)が豊かであれば、人の幸せを一緒に喜べる。

つまり、結婚式うんぬんじゃなくて、結婚式(人の幸せ)に加害性を感じるならば、それは自分の心がしんどくて悲鳴をあげているサインなのだ。

人はどうしても他人と自分を比べてしまう。
自分がしんどい時に、自分よりも幸せそうにしている人を見ると辛くなるのは、無意識に人と比べてしまっているからだ。

人と比べているうちは、自分よりも上の人なんて無限にいるんだから、自分の心が満たされることはない。昔はせいぜい隣近所や友人知人しか目に入らなかったかもしれないけれど、今はネットで世界中の人の暮らしぶりが見えてしまう。

人と比べているうちは、自分の心がすり減るだけで、豊かな人生とは程遠くなってしまう。

難しいとは思うけれど、人と比べず、自分と向き合って、何をしたいか、何をしているときが幸せか、好きなことは何か、そんなことを自分に問いかけて、少しずつで良いから自分に優しく、自分自身を大切に扱ってあげてほしい。

 

ここからは私の過去話。

ある日、お隣さんがキッチンをリフォームするということで挨拶に来た。
自宅で料理教室を開くとのこと。子育てが少し落ち着いてから専門学校に通い勉強し、昔からの夢がようやく実現するという。
専門学校に通っている間は、その人の実母が子どもたちの面倒をみてくれていたという。

「もしよかったらくみたさんも来てください」

笑顔でチラシを渡された。
私は笑顔で受けとった。

私はそのチラシを見て、とても苦しくなった。
その頃の私は、認知症の母と同居していて、他にも悩み事がわんさかあって、母に相談したいくらいだったけれど、その母は今、目の前の娘のことすら忘れてしまい、私は毎日の介護で疲弊しまくっていた。

やりたいことはたくさんある。
夢だってある。
でも自分の自由な時間なんてほとんどない。

自分と同じくらいの年齢で、自分のお隣に住んでいて。
なんでこんなにも違うんだろう。
彼女は自分の夢に全力で向かう、時間も、お金も、身内の援助もある。

それに比べて私は……。

 

今ならわかる。
あの時に感じた苦しさは、自分の心の余裕のなさから来ていた。

あの頃の私は心から祝福なんてできなかったけれど、今なら凄いなぁと尊敬し、憧れの対象となる。
それは今の私に心の余裕があるからだ。
何の変哲もないけれど、穏やかで幸せな日常を手に入れたからだ。

ふと周りを見渡せば、自分よりも恵まれた環境にいて、自分よりも幸せそうに見える人はたくさんいる。
でも今は人と比べず、自分の中の幸せとだけ向き合っているので、羨ましく思うことはない。妬みではなく、それは憧れに近い感情。

人と比べているうちは幸せにはなれないのだと、私は思う。
そして、人の幸せを素直に受け取れなくなっているときは、自分のことを何よりも大事にしてあげてほしい。