くみた柑のオキラクニッキ

時々オキラク、時々マジメ。基本オキラクだけど、人生ってきっと厳しい。

わかりあえない親子・兄弟がいてもいいじゃない、にんげんだもの。

「だってほら、ツイートにもフィクションって書いたし!」

……と、いつもツイッターで遊んでくれている身近な人を騙してしまったことにほんの少しの罪悪感を感じているようないないような正直アホなクミタです。こんにちは♪

えっとそれは、ひとつ前の記事「深刻日記(1)」の話です。

じいん……としていただいた方もいらっしゃるようで、そんな余韻をぶち壊して大変恐縮ではありますが、こんな文章を綴った私の本当の父親は、どこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのかすらわかりませんし、探そうとも思いませんし、正直もうかかわりたくありません。

ちなみに一応裏設定がある柑奈ちゃんの母親ですが、柑奈ちゃんはもう母親には会わなくていいと思いますし、母親のことはさっさと忘れてあとは自分の人生を幸せに生きて欲しいです。(そう簡単に過去のトラウマを忘れることはできないと思いますが)

私もそこそこヘビーな過去を持っていると思っていましたが、やはり上には上があるもので……いやこの場合は下には下? とにかく、酷いと思っていた私の環境は、とても恵まれていたということに、だいぶ大人になってから気づきました。というのも、少なくとも母親からは、とても愛情を感じていたし、大事にされていた自覚があったからです。

幼少期の頃の環境って、本当に大切だと思います。

そこにほんの僅かな救いすらなければ、下手したらその子の一生を台無しにしてしまうほどに。

血がつながっているから絶対に分かり合えるというものではないし、血がつながっているから助け合わなければいけないというものでもないと私は考えています。

「家族の絆」というととても美しく聞こえますが、これは長い時間をかけ、お互いに良い関係を築いてきた家族にのみ当てはまる言葉で、血のつながりが、家族という括りのつながりが、=(イコール)絆とは思いません。

ようは、互いに相手を思い、思いやり、支えあえば、自然とできるのが「絆」であって、そこに血縁は関係ないと思います。

あれ……なんか話が重いぞ……?

なんの話だっけ……あ、そうだ。

何が言いたいかといえば、世の中、絶対にわかりあえない親子・兄弟がいてもいいじゃない、にんげんだもの

ということです。

誰にでも幸せになる権利はあります。

傷つく可能性があるなら、あえて近づかなくてもよいと私は思います。

柑奈ちゃんのように、誤解が生じているだけならば、いつかその誤解はとけるはずです。

とけないのならば……つまり、そういうことです。

以前の私は「母親だけは絶対に子どもを裏切らない教」に入信していて、その時に「絶対わかりあえる」なんて、ある人に決してかけてはいけない言葉をかけてしまい、激しく後悔した過去があるので……。

自戒をこめて。