くみた柑のオキラクニッキ

時々オキラク、時々マジメ。基本オキラクだけど、人生ってきっと厳しい。

想像力の限界

物事を知るには体験することが一番手っ取り早い方法なのはその通りなのだけれど、その体験が辛いものだと、知識として知っておいてほしいけれど、体験はさせたくない、という、ややこしいことになる。

ではそういう知識はどうやって仕入れるか、というと、本を読んだり、体験談を聞く、などになるだろうけど、それでもやはり、実際に体験したときほどの情報量は得られない、と思う。

ノンフィクションであれば、それは事実として受け入れられ、かなり濃い体験談となるけれど、体験したことを物語に落とし込み、フィクションとして書いた場合は、その情報量というものはさらに薄まってしまう気がする。

「だってフィクションだし。事実じゃないよね」って。

事実は小説よりも奇なり、なんて言葉があるように、フィクションみたいな事実はけっこう存在していて、物書きの中には、実際自分が経験したことをそのまま物語に落とし込んでいる人は多いのではと思う。

けれど、実はけっこうめちゃくちゃ事実だったりすることも、フィクションという物語として読んだとたんに、現実味が薄まったり、なくなってしまうなんてことはざらにありそうで。

 

物事には、その背景を知っているか、知っていないかで、見える世界がそれこそ180度変わるなんてことが、たくさんある。

自分が経験して、背景が見えてしまっているものに関しては、180度向こう側の人たちの意見がめっちゃ刺さる。うかつに触れてしまうとボコボコにされる。
きっと私の知らない経験をしている人たちにも、同じように私の言葉が180度向こう側に届いちゃうんだろうなと思うと、やっぱり強い言葉は、どんなことであっても呟きたくないなぁ、と思ってしまう。
そもそも怖くて呟けないけど。

 

伝えたいことはたくさんある。
けれど、そのまま伝えることは怖くてできない。
だからこれからも私は、拙いながらも、物語として綴っていくのだろうな。

 

【伝えたくて書いた本の一例】