くみた柑のオキラクニッキ

時々オキラク、時々マジメ。基本オキラクだけど、人生ってきっと厳しい。

「死」を受け入れるまでにかかる時間

私がとても近しい人を看取る経験をしたのは、だいぶ歳をとってからだ。
お葬式に関しては、学生の頃に何度か参列したことはあったけれど、自分とは少し遠い人で、たとえば何度か話したことがある親戚の人、くらいの距離。
一番近しい人で、学校の先生。(担任ではない)
その時に参列したお葬式が一番印象に残っていて、涙は出なかったけれど、なんとも言えない寂しい気持ちになった。
ついこの間まで元気なお姿を見ていて、なのにその人がもうこの世にはいない、という事実を受け入れることができず、どこか夢のようにふわふわしたものを感じていた。

それから長い年月が過ぎ、私がだいぶ歳をとってから。
身内で癌を患った方が入院し、その方とは年に何度かお会いするくらいの間柄だったけれど、頻繁にお見舞いに行き、たくさんお話するようになって、私はそこで初めてその人のお人柄を知ることになる。
知れば知るほど、その人はとても素敵な方で、最後の最後まで希望を持ち続け癌と戦っていた。
辛いはずなのにその人はずっと笑顔で優しく、私のことも気遣ってくださった。
その人を看取ったあと、私は今までにない喪失感を味わった。
お見舞いに行く時、その人が好きな食べ物を必ず買っていっていたので、買い物中、その商品が目に入るだけでぽろぽろと涙が出てきた。
商品を見た瞬間、頭の中でその人の顔が浮かび脳内で勝手に「買わなくちゃ。あ、もう買わなくていいんだった……」というやり取りが起こり、どうしようもなく悲しい気持ちが溢れてくる。
けれど、式が終わった頃から、少しずつその喪失感や寂しさは薄れていき、涙を流すことはなくなった。

小学生の頃だったと思う。
「死」について考えて怖くて眠れなくなったことがある。
そのきっかけは思い出せないのだけれど、大好きな母も、私を残していつか死んでしまうのだと気づき、母がいなくなった世界を想像するだけで、怖くて悲しくて、毎日のようにその恐怖に怯えていた。私は超がつくマザコンだったので、母がいなくなるということは、この世の終わりくらいの衝撃と同等だった。

大人になって実家から出たあとは、顔を合わせることはほとんどなくなってしまったけれど、それでも母のことは大好きで、あの若くて元気な母のまま、突然この世からいなくなってしまったら、きっと私の心は耐えられなかったと思う。
母は認知症を患ってから約10年ほどたった頃、きちんと検査したわけではないけれど、おそらく末期の癌で、あっという間にこの世を去った。
看取ったときはとても悲しくて苦しかった。けれど、この世の終わりというほどではなく、やはり式を終えた頃から少しずつ母の死を受け入れ、気持ちは軽くなっていった。
母の場合は、認知症になった頃から、そう遠くない未来にお別れのときがくるということを、頭のどこかで理解していたのだと思う。
それでも、体はとても元気だったから、まだまだ長生きすると思っていたところで急激に弱ってしまったので、心が追いつかなかった部分はある。
けれど1週間という余命宣告をされてから、もっと長い間母は頑張ってくれたし、その間、ずっとそばにいることができて、少しずつ、母とお別れをする心の準備ができたことが、母の死を受け入れるという意味で、とても大きかったのだと思う。
母無しでは生きていけないと思っていたあの頃、若くて元気だった頃の母との別れだったら、こんなにすぐに受け入れられるはずがない。
認知症になり、私のことはとっくに忘れ、いつもよそよそしい母と長い間接するうちに、母との心の距離が良い感じに離れ、施設に入居したあとは物理的な距離もでき、若い頃は近すぎた母との距離感がいい塩梅になったのもよかったのだと思う。
ほとんど食べ物を口にすることができなくなった最後の2週間ほどは、ゆっくり時間をかけて、母とのお別れの準備をすることができた。
この世の終わりとまで思っていた母との別れは、そういった意味では長い期間をかけてゆっくりと心の準備ができたのだと思う。

ペットロス、という言葉は前から知っていた。
我が愛鳥、マメルリハの「まめ」との別れは、これまでのお別れとは全く違った辛さがあった。

突然の別れで、心の準備がまったくできていなかったこと。
そして、マメルリハの一般的な寿命より短かったこと。
私の日常に当たり前にそばにいて、心も体もとても近い場所にいてくれたこと。
そして、私の心をただひたすらに癒やしてくれる存在だったこと。

まめとのお別れは、私がこれまで経験してきた別れの中で最高に辛いものだった。
火葬に立会い、もう、その可愛い姿を見ることも、なでることもできなくなったときに、ひとつの心の区切りはついたけれど、半年以上経った今でも、毎日まめのことを思い出すし、時々ふと涙が溢れてくる。
まめが虹の橋を渡った日のことが何度もフラッシュバックして胸が苦しくなる。

まめとは、心と体の距離がとても近く、私の心の拠り所となっていた。そしてお別れをする充分な時間がなかったことが、今までに経験したことがない辛さになっているのだと思う。
たかがペットでしょ?と、この気持ちを理解できない人もいるかもしれないが、私の中ではまめも家族の一員で、この世の終わりと同等だと思っていた母との別れよりも、重く辛いものとなっている。

そして昨年末。
私が高校生の時から大好きなKANさんが、違う星へ旅立った。
KANさんとはもちろん、家族ではないし、会話すらしたことがない。一番近くでお会いしたのはライブ会場4列目だ。
しかし、KANさんがいなくなったことの衝撃はものすごく、それはやはり、長い間KANさんの存在が私の心の拠り所になっていたことと、あまりに突然の報告に、心の準備が全くできていなかったからなのだと思う。

KANさんの場合は、お見舞いにいったわけでも、式に出席したわけでもない。だからずっと、KANさんとのお別れは宙に浮いたまま、どれだけ時間が経っても受け入れることも前に進むこともできなかった。
明確に私の心に変化が訪れたのは、今年の元旦、ツイッタXに投稿された、一つのツイート。

note.com

このKANさんからのサプライズのあと、私の中で「本当にKANさんは別の星に行っただけだったんだ」という気持ちになることができた。
KANさんからもらった言葉で前を向くことができた。

KANさんの曲を聴いたり、ツイッタXでファンの皆さんと交流したり、必死に心を落ち着けようと頑張って空回りして、泣いてばかりだった心が、このたった一つのツイートで救われた。
KANさんがいなくなって生まれた心の穴は、KANさんが埋めてくれた。
KANさんにしか埋めることができなかった。

なので、今年、KANさんと交流があったアーティストの皆さんが追悼ライブをしてくださるようだけど、私には「追悼」とか「お悔やみの言葉」のようなものは、今でもまったく受け入れることができない。
他の人が歌うKANさんの曲を聴くことは、まだできそうにない。
KANさんの曲はKANさんに歌ってほしいから。
(追悼ライブを否定しているわけではないです。このライブで救われる人もいるはずなので)

KANさんは別の星で元気に暮らしている。
私はそう思うことで、KANさんがこの星にいないという現実を受け入れることができるようになった。
フランスに留学していた頃と同じような気持ち。

KANさんとはお別れの時間を充分に取れなかったけれど、逆にKANさんとはまだきちんとお別れしなくていいんだと思えるようになった。
(もちろんこれは私の場合)
それで良いのか悪いのか、そんなことはわからないけれど、とにかく私の心が少しだけ軽くなったことは事実で。

それぞれに、お別れのときの辛さも、受け入れ方も違う。
血縁関係や、もっと言ってしまえば生物的な違いも関係ない。
その人との心の距離と、寿命と呼ばれる期間を生きることができたか、そしてお別れするための時間を充分に取ることができたかどうかが、心のダメージの大きさに比例してくるのだろう。

もうこんな辛い思いはしたくない。
だから私が大好きなみんな。どうか長生きしてね。