くみた柑のオキラクニッキ

時々オキラク、時々マジメ。基本オキラクだけど、人生ってきっと厳しい。

「No」と言えなかった私

私の父親は最低最悪な人だったけれど、母親はそんな父から私を守ってくれた。今でも感謝しているし、大好きな母だ。

両親はしょっちゅう喧嘩していたし、父は私に興味がないどころか私の存在を否定する言動が常だった。父親らしいことなどしてもらった記憶がない。

母も父から今で言うDVを受けていて、父親の愚痴をよく私に話しては涙していた。
辛そうな母を見るのは子供心に苦しかった。大好きな母を苦しめる父が大嫌いだったし、そんな最低最悪な父親の血が私の中に半分流れていることが嫌で嫌でたまらなかった。

こんな環境の中では、そもそも自己肯定感が上がるはずがない。
もれなく、私の自己肯定感はずっと、地を這うような低さだった。
私が母にできる恩返しはせいぜい、愚痴を聞いてあげることか、母の味方になり支えることだ。

自分に自信がない。
人の顔色ばかりをうかがう。
ノーが言えない、イエスマンの完成だ。

私はいつの頃からか、頼まれ事を断るのが苦手になっていた。
嫌だな、と思っても笑顔で「いいですよ」と言う。
別に断ったっていいのに、断ることに罪悪感を感じる。
笑顔で引き受ければ相手は喜ぶので、こんな私でも人の役に立つことができると嬉しくなるのだ。

自分さえ我慢すればうまくいく。
私なんかで役に立つなら。
言いたいことも、嫌なことも飲み込んで。
しんどくても「助けて」「無理です」がなかなか言えなくて。
そうして「都合のいい人」として長年歩んできた結果、自分の人生、自分の幸せというところから一番遠いところに立っていた。

こんなことに傷ついた。
こんなことが嫌だった。

飲み込んだ言葉は伝わらない。
しんどくてもやり遂げてしまえば「できるじゃん」と思われる。

都合よく扱われているなと感じることはたくさんあったけれど、人の役に立てているという幸福感もあった。
誰かがやらなくてはいけないのなら、私がやればいい。
そしたらみんな喜ぶ。うまくいく。

私のことを大切に思ってくれている人にならばそれでいいけれど、そうじゃなければ自分が消耗していくだけだ。

もう無理!って言えばよかった。
歯を食いしばってがんばらなければよかった。

これからは自分の意思を尊重したい。
大切な人にだけ尽くしたい。
自分と向き合うことで見えてきた、私の情けなくてどうしようもない部分。
長年かけて形成された人格を変えることはなかなかに難しいけれど、私は変わりたい。
何より、自分を幸せにしてあげたい。

自分のことが好きではなかった私にしては、これはすごい進歩なのでは?と思う。
まだ全然自分を好きになれないけど。