くみた柑のオキラクニッキ

時々オキラク、時々マジメ。基本オキラクだけど、人生ってきっと厳しい。

料理とか人間が番号で扱われること(そこから始まる哲学の話)

私は、ある物事について答えが見つからず、頭の中でぐるぐるモヤモヤしているときは、自分なりの着地点を見つけないと落ち着かない。

昨晩書いた日記の続きなので、興味があればぜひ。

kumitakan.hatenablog.com

ツイッタでバズっていた、サイゼリヤのメニューが番号で取り扱われることのおぞましさについて語っていた偉い人の話なんだけど、昨晩の時点では結局何もわからないままだったので、気になる部分をもう少し調べてみた。

恐らくキーになるのは、この方が哲学者である、ということだ。
でも哲学はほんのちょっぴりかじるくらいなら大好きだけれど、凡人の私には難しすぎて全部を知ることは不可能。
そしたら、こんなnote記事を見つけた。

ここで文字として述べられているのは、メニューに記号列が割り当てられていることへの嘆きだ。連想されるのは「ライス大盛りという、持っている名前でやり取りされない世界」の寂しさだろうか。

ちょっとわかった気がした!
そして、彼の人の発言が、一貫性無く感じられたのは『「どの記号までが情緒を含んでいて、どの記号から情緒を含まなくなるか」は人によって違う』からなのか!
記号化のグラデーション、なるほどなるほど。

さらに、このnote記事に貼られていたもうひとつの記事が、とても面白かった。

例えば誰かが「ライオン」と言ったとする。「ラ・イ・オ・ン」という4つの音の並びを聞くと、日本語を知っている人なら誰でも共通の動物の姿を思い描く。でもその瞬間に、それが持っている匂いやゴワゴワしたタテガミの手触り、それが持っている迫力や怖さなどは全部削ぎ落とされてしまう。

なるほどなるほど。

言語化は一見正しい情報に絞り込むための良い方法に思われるけれど、実は自分が言語化した内容に影響されて元々の記憶が歪むらしい。

(中略)

言葉にしない(できない)感情や感覚が積もり積もって内側から溢れ出すとき、これまでの圧が解放されるような、爆発するような強い表現になるのだろうなと思う。

文章を書く身としてはとても興味深かったし、言語化することで伝えたかった情報、思いが歪んでしまっているのではないかと、ちょっと怖くもなった。

凄い作品を観たりした時に、言いたいことはたくさんあるのに、うまく言語化できなくて、結果語彙力が低下して「最高でした……!」しか言えなくなるのは、心の中の感情が安易な言葉に変換できないからこそなのかと、改めて思ったり。

と、ここまできて、哲学ってやっぱり面白いな、と思った。
つまり彼の人は、哲学の話を持ち込みながらあのツイートをすればよかったのではないか。そうすれば、こんなふうにとても興味深く面白い知識が手に入る。

彼の著書を読めばわかる、というツイートもいくつかあって、でも大半の人は読んでいないだろうし、呟き方ひとつで自著の宣伝にもなるし、哲学に興味を持ってもらえるきっかけになるかもしれない。
当人はそんなことは望んでいないのかもしれないけれど。

初めのツイートを読んだ時、実は何を言っているのかさっぱりわからなかった。わからなかったので、関連ツイートを読んでいき、その先にあった「一切コミュニケーションなしの居酒屋。どうも、と、お会計お願いします、しか言わないことにした。ざまあみろと思いながら」というところが、私は一番ひっかかったのだと思う。

こうして哲学的な部分もほんのり理解した上でもう一度読んでみると、はじめは店員さんに対して思ったことだと思ったけれど、メニューに記号列をあてがった人類への嘆き、ともとれる気がする。
どちらにしても、あまり気持ちのよい文章ではない。ようは伝え方の問題だと思うけど。

今回の件で、とても興味深い知識を得たので結果無駄ではなかったけれど、どうせなら「哲学って面白そう!」と思ってもらえるような発言にしたら、幸せなバズり方をしたのではないだろうか。